2020年5月23日土曜日

「そよ風」の「慰霊祭」における発言の一部抜粋

右翼団体「そよ風」は2017年9月より毎年、横網町公園内の石原町犠牲者慰霊碑の前で、「真実の関東大震災 石原町犠牲者慰霊祭」と題する集会を行っている。しかし、この集会は石原町の震災犠牲者の追悼を目的とするものではない。実際、この「慰霊祭」において、石原町の犠牲者についての言及は皆無に近いのである。

その代わりに、彼らが口々に訴えているのは、朝鮮人虐殺否定論である。彼らは、「朝鮮人が放火や強盗を行って日本人を殺したのだ」と主張する。「不逞朝鮮人が放火した」といったヘイトスピーチも多い。

当然ながら、「朝鮮人が放火や強盗を行った」などという認識は事実に反するものだ。それについては、〈20分でわかる「虐殺否定論」のウソ〉の、特に「その2」「その6」を参照のこと。「朝鮮人暴動」など存在しなかったし、殺人、強盗、強姦、放火の容疑で起訴された朝鮮人は一人もいなかった。

以下、そよ風「慰霊祭」における発言のごく一部を、彼ら自身の動画から抜粋する。注目すべき部分には、こちらで青文字で強調した。


そよ風代表・鈴木由起子氏による「追悼の辞」

「96年前の今日、関東大震災で落命された10万5000人のみなさま、そして難を逃れてこの東京を見事に復興させてくださった父祖の皆さま、私たちがこの慰霊祭を行う目的はただ一つ、皆さまの名誉を回復することです

「この慰霊碑のすぐ前にある朝鮮人追悼碑には皆さまが震災に乗じて6000人の大虐殺を行ったと明記され、慰霊祭と称する政治集会では、その大虐殺の罪で、われわれに謝罪と賠償を求めてきています。私たちは、このような父祖へのゆえなき侮辱を許すことができません。(そうだ!の声と拍手)」

「そもそも、この6000人という数字にはまったく根拠がありません。(略)一方、日本の新聞がいっせいに報じた、不逞朝鮮人による放火、殺人、強盗、強姦、爆弾所持などの記事については、司法省刑事局の記録と符合するものがあります

「これからも日本人の濡れ衣を晴らすよう全力で闘っていくことをお誓い申し上げて開会の言葉と致します」

「墨田区住民を代表して」発言した女性

朝鮮人が震災に乗じて略奪、暴行、強姦などを頻発させ、軍隊の武器庫を襲撃したりして日本人が虐殺されたのが真相です。犯人は不逞朝鮮人、朝鮮人コリアンだったのです。(略)朝鮮人たちは助け合うどころか、逆に暴徒と化して日本人を襲い、食料を奪い、暴行を働き、あるいは人を殺し、婦女を強姦したのです(略)一方、不逞在日朝鮮人たちによって身内を殺され、家を焼かれ、財物を奪われ、女子供を強姦された多くの日本人たちは青年団を中心に自警団を編成し、朝鮮人たちの暴行に備えました

来賓の瀬戸弘幸(日本第一党最高顧問、「ヒトラー・ナチス研究会」主催者)氏

わたくしは、いま在日朝鮮人との闘いのまっただなかにいる川崎からやって参りました。さきほどいろんな先生方がお話した言葉は、朝鮮人に言わせればすべてヘイトスピーチになる、いま川崎市ではそういう言葉を発すれば即罰金50万円、そしてその手先となっていま我々と闘っている連中は、我々は刑務所に行くと、そういうことを言ってる。信じられますか、みなさん。ドイツでは600万人のユダヤ人が虐殺されたと、ありもしないことですけれども、こう言っただけで刑務所に送られます」

閉会の辞から

「いまから96年前、大正12年のこの日、未曾有の惨事となった関東大震災においては、災害だけではなく放火などの卑劣な犯罪によって10万人以上の尊い人命が非情にも奪われました。のちに自らの加害行為を告白した民族活動家や同胞による犯行を告発した朝鮮人の証言が多数あるもかかわらず、日本人だけが6000人虐殺という極端に誇張された汚名をきせられてきたのです」


出典:そよ風ブログ19年9月3日記事「関東大震災石原町犠牲者真実の慰霊祭 その2」掲載の動画より文字起こし
http://blog.livedoor.jp/soyokaze2009/archives/51911984.html



2020年5月22日金曜日

朝鮮人犠牲者追悼碑の三つの意義

加藤直樹(ノンフィクション作家)


朝鮮人犠牲者追悼碑の存在には、三つの大きな意義があります。

一つ目は、それが虐殺の記憶を継承し、死者の前で歴史の教訓を確認する場であるということです。東京は、あの虐殺事件の中心でした。朝鮮総督府警務局の調査でも約300人が東京府内で殺されたとしています。おそらくはもっと多いことでしょう。弁護士の山崎今朝弥は虐殺事件後、「朝鮮人が殺された場所ごとに塚(追悼碑)を作らなくては、日本人と朝鮮人の和解はあり得ない」と訴えましたが、横網町公園の碑は、それに応える一つのかたちになっています。

二つ目は、それが他ならぬ「横網町公園」に置かれていることの意義です。横網町公園は、関東大震災の死者を追悼する場として1930年に開園しました。現在は45年の東京大空襲の死者を悼む場ともなっています。朝鮮人犠牲者追悼碑が、東京都が管理するこの公園の中に置かれていることは、虐殺事件の記憶が東京の「負の原点」であることを確認し、共有する場になっていると思うのです。都知事の毎年の追悼文も、その一部を成しているはずです。

東京には、多くの在日韓国・朝鮮人が暮らしています。その中には、あのとき、殺されかかった人の子孫もいます。私はそういう人に何人も会いました。さらに東京には近年、様々な民族に属する人々が暮らすようになりました。追悼碑が東京都の記憶に関わる公園に置かれているということは、多民族都市である東京で、日本人ではないという理由で誰かが暴力の犠牲となるようなことを二度と許さないという誓いの意味をもっていると思うのです。

三つ目は、追悼碑が「虐殺事件を忘れずに、その反省と教訓を後世に伝えていこう」と考えた先人たちが残した遺産だということです。

1973年に「関東大震災50周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」が朝鮮人犠牲者追悼碑の建立を呼びかけたとき、あれほど虐殺がひどかった東京に、犠牲者を悼む碑が一つもありませんでした(埼玉や千葉にはすでにありました)。震災50年という節目の年に、東京に追悼碑を造ろうという呼びかけは大きく広がり、都議会各派の幹事長が実行委に参加し、美濃部亮吉・東京都知事を筆頭に自民党から共産党に至る様々な政治的立場の600人の個人と250の団体が協力しました。

これほどの広がりがあったのは、あの事件から50年しか経っていない当時、関東大震災を記憶している人がまだ多かったからでしょう。虐殺や迫害を実際に見聞きした人も少なくなかったはずです。追悼式典のチラシに毎年書かれている「この悲劇、繰り返しはせぬ」という言葉に現れている思いは、1973年の段階では非常に生々しいものだったと思います。それを石造りの「碑」という形で表現したのは、当然、その思いを子々孫々に伝えようと考えたからに違いありません。追悼碑には、実際に虐殺の時代の空気に触れた人たちの、後世の人々への思いが託されているのです。 追悼碑の建立が一貫して日本人の手によって行われたことも重要です。

以上の三つが、横網町公園にある追悼碑の意義として私が考えているものです。そして、その意義は、9月1日に追悼碑の前で行われる追悼式典によって毎年、新たにされているのだと思います。

「そよ風」や古賀都議らが追悼式典と追悼碑を憎むのも、上の三つの意義のゆえだと思います。彼らは虐殺の記憶を忘却させたい、東京都の行政から「民族差別を許さない」という姿勢を一掃したい(なぜなら彼らの不健全なナショナリズムは民族差別抜きでは成り立たないから)、そのために、虐殺の記憶を守る営みを消し去りたいという欲望にかられているのです。

小池都知事の追悼文送付拒否事件を機に「そんなことは許さない」という思いで多くの人が声を上げ、追悼式典に参集しました。逆説的なようですが、それは、1973年に碑を建立した人々の思いが、後世の人々に受け継がれつつある光景なのではないかと感じています。私自身もまた、そうした「後世の人」の一人でありたいと願っています。

(一部抜粋。日朝協会機関誌「日本と朝鮮」第912号、19年8月1日付より)



#東京都は差別をやめて朝鮮人犠牲者追悼式典に占有許可を出せ
#関東大震災 #朝鮮人虐殺
#関東大震災朝鮮人虐殺 #東京都



2018年6月7日木曜日

山根真治郎「誤報とその責任」

山根真治郎「誤報とその責任」1938年、日本新聞協会附属新聞学院)p.119

風説をそのまま掲載するのは初期時代の新聞で、風説は寧ろ大切なソースであった。
悪質な風説は事変とか争乱とか天災地変のやうな時に多く発生する。
大正12年の関東大震災の時は人心徨惑して風説百出し、さしも冷静を誇る新聞記者も遂に常軌を逸した誤報を重ねて悔を千歳に遺した事は今なほ記憶に新たなる処である。
曰く在留朝鮮人大挙武器を揮って市内に迫る、曰く毒物を井戸に投入した、曰く徳富蘇峰圧死す、曰く激浪関東一帯を呑む…数えるだにも苦悩を覚える。

注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。



  ◎こちらの国立国会図書館デジタルコレクションで読める→リンク


解説◎
山根真治郎は1884年(明治17年)生まれ。明治末期から新聞記者として時事新報、国民新聞、東京新聞などいくつもの新聞社で活躍し、「新聞の鬼」と呼ばれた。後進を育てるため、「新聞学院」も創設している。

2017年4月20日木曜日

虐殺を扱った内閣府「関東大震災報告」“削除”問題について

(『九月、東京の路上で』Facebookより転載)

加藤直樹
(記事投稿の数日後「報告書」は復活しています)


たぶん皆さんが思っている以上に、この問題は深刻な意味をもっている。

4月19日の朝日新聞朝刊に「『朝鮮人虐殺』に苦情、削除/災害教訓の報告書/内閣府HP」という記事が掲載された。しかしその日の午後、内閣府は削除の予定などない、今月中に際掲載する―と時事通信の取材に対して表明した。

だがこれをもって朝日の記事を誤報と決めつけることはできないだろう。というのは、この前日、ある人が内閣府中央防災会議に問い合わせた際、担当者が「リニューアルに際して、(専門調査会)報告書をすべて削除する」と公言した事実があるからだ。この数か月の森友騒動で、私たちは、官僚が「ない」と言えばそれだけでそれが「ない」と考えるほどナイーブではなくなったはずである。

現在も内閣府HPからは専門調査会報告がすべて削除されたままであり、内閣府が本当に「すべて再掲載する」のかどうか、予断を許さない。

内閣府中央防災会議の「災害の継承に関する専門調査会」は、江戸時代以降の災害の教訓を示す目的で設置された。災害ごとに、優れた地震学者、歴史学者、社会学者たちがいくつもの報告書をまとめている。

朝鮮人虐殺について言及している「1923関東大震災報告書第2編」(以下、「第2編」)は、2008年3月にまとめられたその1冊だ。いま、“削除中” なのは、安政の大地震まで含む報告書のすべてである。朝日の報道を読む限りでは、「第2編」を削除したいがためにその他の報告書もすべて削除しようとしたように思われる。

もちろん、仮にこのまま内閣府HPから消えても、文書の存在が消えるわけではない。国会図書館まで足を運べば、閲覧は可能である。その内容が否定されるわけでもない。だが、ネット上で「第2編」が読めなくなることは、虐殺の史実を守る上で深刻な意味をもつ。それはどういうことか。

2009年、工藤美代子名義で『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)という本が出された。2014年には加藤康男(工藤の夫)名義で『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』(WAC出版)という題名で再刊された。

以来、これらに触発されて、ネット上には現在、「朝鮮人虐殺否定論」が溢れかえっている。図書館や書店でまともな歴史の本を読み、調べれば、否定論など全く成立の余地がないのだが、検証の手段の少ないネット上では数の力でまともな議論を圧倒する勢いだ。

内閣府HPに行けば誰でも閲覧可能な「第2編」の存在は、否定論に対するネット上の最大最後の防波堤である。

政府機関である内閣府の下で、優れた学者たちが(自民党政権下で)まとめたこの報告は、虐殺をめぐるこれまでの学問的な蓄積を手堅く穏当にまとめた信用できる内容であり、朝鮮人虐殺についての貴重な入門書にもなっている。軍の虐殺関与も含め、大事な論点は網羅されている。

15年1月のNHK「クローズアップ現代」でも、16年9月のETVの朝鮮人虐殺特集でも、この「第2編」を前面に押し立てて番組を作成している。「第2編」がなければ、今のNHKであのような番組をつくることは不可能だっただろう。

虐殺否定論が跋扈するネット上で、その存在は「消防署」のようなものとも言える。

私も「民族差別への抗議行動・知らせ隊」の仲間や先輩方と共に「『朝鮮人虐殺はなかった』はなぜデタラメか」という虐殺否定論批判のサイトをつくった。だがそこで提示する資料や記述にも、この「第2編」に由来するものが少なくない。
つまり私たちのサイトは「消防団」のようなものであり、「消防署」なしでは十分な働きはできない。

もしこのまま「第2編」という消防署がネット上から消え去ってしまえば、ネット上では「朝鮮人虐殺はなかった」という、トリックと大声を武器とする“放火魔たち”が席巻するようになる。3年後には「虐殺? あったのかなかったのか分からないな」というのが“常識的立場”ということになるだろう。

そしてネット上でそうした歴史歪曲が勝利すれば、政治家の間にもそれは浸透し、あるいは人気取りのために積極的にそれに迎合する政治家も増える。そうなれば政治の力によって、「虐殺はなかった」は、ネットの“常識” から世間の“常識” となる。そうなれば学者たちは沈黙する。教科書からも“削除”される。あっと言う間だろう。「第2編」がネットで閲覧できるか否かは、歴史歪曲の拡大を防ぐ上で致命的に重要なのだ。

もう一つの深刻さは、内閣府HPにかつて掲示されていた文書を政府自らが削除するという行為自体が帯びる「メッセージ」である。

そのとき私たちが、「この文書は国会図書館で読める、今も内閣府の文書として存在している」と主張しようが、否定論者たちは、「削除されたということは信用できない内容だったということを意味する」と言うだろう。「第2編」は、人知れず存在しても、信用されない文書になる。無効化される。この点でも、「第2編」の「削除」は致命的な効果をもつ。

このまま「削除」されるのか、内閣府が19日の午後になって公言し始めたように「再掲載」されるのか。その選択がとても大きな意味をもつことを理解していただけただろうか。

朝日の取材に対して防災会議の担当者は「苦情が多かったから削除する」という趣旨のことを語ったと記事にはある。真相は分からない。これが事実だった場合、果たしてそれは単なるネトウヨの抗議電話を意味するのだろうか。

「削除しろ」という政治家の介入があった可能性を考えるべきだろう。そしてその政治家の介入の背後に、負の歴史の「削除」を推し進める右派団体の執拗なロビー活動が存在する可能性もある。

だとすれば私たちは、「単なるリニューアルです。再掲載しますから」という官僚の言葉にほっとしている場合ではない。歴史修正主義者たちは今この瞬間もロビー活動を続けているかもしれないからだ。その結果、形式上は「再掲載」だが実際にはアクセスできないまま―といった結果を見るかもしれないのだ。

かつてまともな政治家や官僚たちが学者たちに「災害の教訓をまとめてください」と依頼し、優れた学者たちがそれに応えて教訓を書いた。関東大震災時の虐殺から学者たちがつかんだ教訓は次の通りである。

「過去の反省と民族差別の解消の努力が必要なのは改めて確認しておく。その上で、流言の発生、そして自然災害とテロの混同が現在も生じ得る事態であることを認識する必要がある」(『第2編』「おわりに」)。

「第2編」の閲覧停止は、この教訓を私たちが未来に向けて守れないことを意味する。地震国であり、多民族が暮らす日本で、それは恐ろしい選択だ。

引き続き、「きちんと・ネット上で全て読めるように・再掲載するべきだ」という多くの人の声を上げる必要がある。引き続き多くの人が、多くの手段を通じて、内閣府に声を届けてほしいと思う。

(記事投稿の数日後「報告書」は復活しています) 

参考資料

朝日新聞記事 


時事通信記事


国会図書館のサイト保存プロジェクトで読める“削除中”の「第2編

2016年1月12日火曜日

警視庁による中国人虐殺事件の報告

警視庁広瀬久忠外事課長直話(192396日)

目下東京地方にある支那人は約4500名にしてうち2000名は労働者なるところ、93日大島町7丁目において鮮人放火嫌疑に関連して支那人および朝鮮人300名ないし4003回にわたり銃殺又は撲殺せられたり。第1回は同日朝、軍隊において青年団より引渡しを受けたる2名の支那人を銃殺し、第2回は午後1時頃軍隊および自警団(青年団および在郷軍人団等)において約200名を銃殺又は撲殺、第3回には午後4時頃約100名を同様殺害せり。
右支鮮人の死体は4日まで何等処理せられず、警視庁においては野戦重砲兵第3旅団長金子直少将および戒厳司令部参謀長に対し、右死体処理方および同地残余の200名ないし300名の支那人保護方を要請し、とりあえず鴻の台(註:国府台)兵営において集団的保護をなす手はずとなりたり。
本事件発生の動機原因等については目下の所不明なるも支那人および朝鮮人にして放火等をなせる明確なる事実なくただ鮮人については爆弾所持等の事例発見せられ居るのみ。
なお全管内の支鮮人の保護は軍隊警察においてこれに当たり、管下各警察に対してはそれぞれ通達済みなり。 
        (アジア歴史資料センターHPレファレンスコードB04013322800)



注)原文はカタカナだが、ひらがなに直した。また、一部の漢字を開き、句読点を入れて読みやすくしている。



◎解説
中国人と朝鮮人が殺されたとあるが、大島で殺されたのは主に中国人であった。関東大震災から3日後の192393日、現在の江東区大島において、中国人労働者300人以上が、軍の部隊と群衆によって虐殺されたのである。この事件の全体像については、ブログ『9月、東京の路上で』「中国人はなぜ殺されたのか」で紹介している。

この文書は、震災後に政府に設置された臨時震災救護事務局の会議の場において、警視庁の広瀬外事課長が口頭で報告した内容を筆記したもの。国立公文書館が運営する「アジア歴史資料センター」のHPで実物の画像を見ることができる(リンク)。


ところで、この文書には「朝鮮人が爆弾を所持していた事例がある」という趣旨の文言が出てくるが、実際には、爆弾を所持した朝鮮人がいたことを示す司法記録も行政文書も存在しない。残っているのは、爆弾をもっているとして住民が連れてきた朝鮮人を調べて見ると、持っていたのは牛肉の缶詰であったという類の記録ばかりであり、実物の爆弾はついに発見されなかった。

96日といえばまだ混乱のさなかであり、この「爆弾」話も、当局自身の混乱を反映した誤報であろう。念のため書いておけば、関東大震災時に、朝鮮人、あるいは朝鮮人と誤認して日本人や中国人を殺傷したことで起訴された日本人は566人に上る一方で、殺人、放火、強姦などの罪で起訴された朝鮮人は一人もいない。

2016年1月7日木曜日

「イモを食わないのは、朝鮮人だ」


「日本国民の敵は、不逞鮮人だ!」とどなり歩く声があちこちで恐ろしげに響いていた。本所、深川あたりから罹災してくる人たちの声だったようです。この罹災民たちは、知らない人からもらった水や食物は、ぜったい口にしないといううわさでした。
(9月)4日になって私たちは田端から母の故郷の福島に向かったのですが、その車中で、すごい光景を見てしまいました。
途中の駅で罹災者にイモの差し入れがあったのですが、車中で一人の男がイモをもらったままにしていたのです。すると誰かが「イモを食わないのは、朝鮮人だ」と叫び始めた。屈強の男たちが4、5人、この 朝鮮人” を追い駆け回し、隣の客車まで逃げた男を連れ戻してきておいて、頭といわず、からだといわず、ところかまわず、なぐる、けるの乱暴を加えたので、男は口から血を吐いてとうとう死んでしまいました。
車中のかなりの人がそれを見て「バンザイ」などといって大喜びしているのです。私はなんと無残なことをするのかと腹立たしく思いましたが、まわりの人がこわくて黙っているしかありません。
そのほか、白河の少し手前でも、同じような朝鮮人を見い出し、列車の中でなぐり殺してしまいました。
大地震で日本国中の日本人たちが、狂っていたとしか思われません。私たちは集団になると、とんでもないことをしでかす民族かもしれないと思うと、いまでもゾッとします。(談)
(月刊「潮」19719月号)

解説◎
北沢初江さん(主婦)の証言。「日本人の朝鮮人に対する虐待と差別/日本人100人の証言」という特集で掲載されたもの。関東大震災時の虐殺について、多くの証言が取り上げられている。列車の車中で、イモを食わないという理由で殺された人がいたことは、当時の新聞にも出てくる。

2015年12月22日火曜日

海岸に打ち上げられた虐殺犠牲者の骨

虐殺鮮人数百名の白骨、子安海岸に漂着 

やまと新聞1924210日付夕刊



やまと新聞1924210日付夕刊(国会図書館所蔵)
クリックで拡大します。


虐殺鮮人数百名の白骨、子安海岸に漂着

昨日の暴風に打揚げられて/当局面倒がつて責任のなすりあひ

横浜子安方面では九月一日の大震災当時、気荒い漁夫連が多く居住して居たとて数百名の朝鮮人を殺害しその大部分は海中に放棄してしまつたが、八日の暴風のため波浪高く、腐 爛した肉をつけた白骨数多、同海岸へ打ち揚げ、しかも神奈川署では完全な骨組をしてないからと市役所へ廻すのを面倒がり、どこへでも埋めてしまへと取り合わぬので、同海岸はバラバラとなった人骨累々として鬼気人に迫るの物凄さである(横浜電話)
注)読みやすさを考慮して句点を追加しています。


解説◎
震災から5ヶ月後の記事。この記事から読み取れる恐ろしい意味は2つ。一つは、日本人なのか朝鮮人なのか、骨を見ただけで分かるはずがないのに、誰もが自然に「あのとき殺された朝鮮人の骨だ」と思い至るほど、震災時の虐殺がすさまじかったことが透けてみえるということ。次に、にもかかわらず、というより、だからこそ、警察も含め、誰もが見て見ぬふりをして遺骨にきちんと向き合おうとせず、むしろ逃げ回っているということ。

実際、残された多くの証言からは、横浜の虐殺はひどいものだったことが伺える。震災翌月の新聞にも「91日夜から4日まで横浜市内は血みどろの混乱状態/市内だけで判明した鮮人死体は44名でこのほか土中、河、海に投げ捨てたものを入れると140150名を下らず、間違へられて殺された日本人さへ30余名あるといふ」(読売新聞19231021日付)とある。朝鮮総督府が秘密裏に行った調査では、殺された朝鮮人の「見込み数」は180人とされている。恐らくはもっと多いだろう。だがこのうち、殺人事件として起訴されたのは1件だけだ。

海岸に放置された犠牲者の遺骨は、その後、どうなったのだろうか。